今の日本のお笑いにも通用する!笑いについて分析した哲学書。ベルクソン『笑い』
「笑い」について考察した異例の哲学書です。
訳者も述べていましたが、ベルリンの著書の中でも、異質で独立しており、他の著書との関連もほとんどないことから、この本だけいきなり読んでも大丈夫です。
まあ、そうは言っても決して簡単な本ではありません。この人の、時間について考察した本を読んだことはあるのですが、専門用語を専門用語で説明するというか、まとめると‥の部分で新たな話を持ち出してきたりと、わかりにくいんですよねー。翻訳した人は大変だっただろうなあと思います。
おかしさが生まれるポイントを訳者が後書きでわかりやすくまとめています。曰く
①人間的であること
②心を動かされないこと
③他人との接触が維持されていること
が挙げられています。
①は人間、あるいは動物でも、人間的なものが見いだされないとおかしさは生じないということです。犬が笑っているような顔におかしさがあるのはこれですね。
②はある程度傍観者的な立ち位置にいることが求められるということです。ずっこけた人が他人だとおかしさがありますが、身内だとケガの心配をしていまいますからね。
③はまあ、社会的な集団にいること、孤立していたらダメということです。
第1章から難しいですが、おかしさの大きな要因として、緊張の緩みを挙げています。上記の①~③を満たしつつ、緊張状態から何か気の抜けたことが起こるからおかしさがあると。
そして最も興味深かったのはここでした。
「おかしさのある顔つきとは?おかしさと醜さを区別するものとは?」という疑問です。
この問いに対する筆者の答えはこうです。
しっかりした格好の人でも難なく模倣してしまえるような不格好さはすべておかしさをもったものになりうる
つまり、モノマネができるかどうかってことですよね。モノマネが面白いのは、似ているかどうかよりむしろ、特徴をとらえているからであり、そのモノマネのモノマネを我々が出来るという点にあると思うんですよね。
第2章では、情況のおかしさと言葉のおかしさです。
筆者はここで演劇でおかしさを誘発させる手法を3つに分類しています。
1 繰り返し
2 ひっくり返し
3 系列間の相互干渉
です。
1の繰り返しはわかりやすいですね。この本では、久しぶりに会った友人に、同じ日にまた別の場所で出くわす、というものが例として挙げられています。
タカアンドトシを見てもわかるように、単純に言葉の繰り返しだけでも面白いですね。
2のひっくり返しは、役割や情況が入れ替わること、例えば、詐欺師が詐欺に引っかかる、子供が親に説教をする、という状況です。今だと完熟フレッシュですね。
3の系列間の相互干渉。難しいことが書いてありますが、一言でいうと、取り違えであり、読めば読むほどアンジャッシュの勘違いコント、あるいは東京03のコントをイメージさせる文章です。
登場人物たちが全編を通じてまったく変わることのない関係性を保ち続けるものの、そのうち何人かが隠し事をしていて口裏を合わせなければならず、大きな喜劇のなかでもうひとつの小さな喜劇を演じるようにする、という手法もある。
↑東京03わりとこういう設定ありますよね。
もう1つ情況のおかしさには移調というものがあると筆者はいいます。
「ある観念の本来の表現を別の調子に移調すればおかしさをもった効果が得られることになる。」と書かれていますが、まあ、パロディの殆どはコレです。日本の漫才コントもこのパターンは多いですね。ゲームセンターみたいな靴屋さんがあったらとか。
第3章は性格のおかしさについてです。
ここも興味深い箇所は多々ありますが、長くなるので割愛します。
全体的な印象としては、モリエールあたりの喜劇がよく例に出てくるので、そこらへんの知識があればもっと理解できそうだと思いました。
ちなみに昔、トリビアの泉というテレビ番組で、笑いについて研究している学者を集めて、ギャグを作ってもらうという企画がありましたが、そのとき誕生したギャグは、壇上に学生の格好をして登場し、
青年の主張
私は全国の皆さんに伝えたい事があります
私は人一倍性欲があります!
と宣言するものでした。下ネタですね。嫌いじゃない!