日本のお笑いはどう変わっていくのか?『社会は笑う・増補版』
ボケとツッコミの人間関係。
お笑いについて分析した本。
社会は笑う・増補版: ボケとツッコミの人間関係 (青弓社ライブラリー)
- 作者: 太田省一
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 2013/07/19
- メディア: 単行本
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なぜ笑いの主流が落語から漫才、そして現在に至る何でもありのスタイルへと変わっていったか、実際の欽ちゃんの番組やザ・マンザイ、ひょうきん族など多くのTV番組を例に分析がなされています。
興味深いのは、筆者の言葉でいうところの、「ボケとツッコミの遊離」が進んだことにより、我々視聴者がツッコミの一役を担っているということ。
モノマネや、あるあるネタに対して、「似てねーよ」とか「あるある」とか言っちゃうアレですね。笑えるかどうかを視聴者に託すようになってきた、一方的なものではなく、演者と受け手の社会が構成されていると言えそうです。
この点は、まあ、喜劇くらいしか観察対象が無かったとはいえ、ベルクソンの『笑い』でも言及されていなかった指摘ですね。
こうした笑いの受け手について、筆者は
笑うということは、すでにふれたように自己主張を意味しているのであって、そのなかには「笑い」に関するみずからの批評眼の表明という側面もあっただろう。
と述べています。確かに!
この頃からお笑いにいわゆる「素人」が登場したとも言います。
そんな筆者が、今の、すぐにいじめを助長するとかなんとかでクレーム、炎上になる社会についてどう思っているか。
繰り返せば、それは、現在の社会でそれなりに浸透しているであろう「お約束」感覚に対する根本的な鈍感さからきている。だが「お約束」が、暴力性への不安を誘発してしまうことにも、それなりの理由がないわけではない。なぜなら、それがいくら疑似的なものだとしても、その主役である「キャラ」の根本には、「素」の個人が組み込まれているからである。その意味で「お約束」は、もう一方で(少なくとも潜在的には)リアルなものとほとんどすれすれのところで反復されるようなものなのである。
はい。
この辺は読んで頂くとわかるんですが、筆者は、お笑い芸人は、キャラを演じつつも、「素」の部分が時折顔を見せる、その不安定さ、崩しが笑いの主流になっていると言っています。もちろん、芸人側は、敢えて素で嫌がっているところを見せることで、笑いを誘っているのですが、それに気づかない鈍感な人も多い。そして、それもある程度仕方のないことだと言っているわけですね。
この辺が、バラエティーには苦情が殺到し、ドラマには苦情が来ない原因なのかもしれません。
これが問題になったのは、警官に扮した出演者が、素で笑ってしまったということなんでしょうけどね。
まあ、制約が厳しくなるなか、これからお笑いがどう変わっていくのか、楽しみでもあり、不安でもあります。