で、結局「車輪」とは何なのか?ヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』
大学生の時の話。
専攻ではないですが、選択でドイツ文学の授業を取っていました。そのときの先生は、一時期ヘッセにかなり入れ込んでいたそうで、ヘッセの車輪の下という作品も熱心に解説していました。
ある日の授業で、「車輪とは何だと思いますか?」と聞かれたんですね。
で、僕は、日本でも社会の歯車みたいな表現はあるし、そんなような意味だと思います、的なことを言いました。
それに対して、先生は「間違ってはいないが、少し足りない。車輪はそれ単独では存在しない。車輪を動かすためには馬もいるし、当然馬車が通る道もあるはず」
というようなことを、正確には覚えてませんけど、言ったんですね。
まあその時は、単位が取れればそれでよかったんで、それ以上特に考えることもなかったんですが、ずっと気になってはいたので、今になって改めて読んでみることにしました。
今回読んだのは、松永美穂という方が訳した、光文社の『車輪の下で』です。
「車輪の下」と訳してあるのが多いですが、訳者は敢えて「車輪の下で」と訳しています。これについて訳者はあとがきで、
「で」という助詞を加えることで、運命の車輪の下で悶え苦しむハンスの、その闘いぶりが現在進行形で伝わるのではないか、と思った。ささやかな試みである。
と言っています。
この小説の原題は「Unterm Rad」で、これは英語でいうところの、Under the wheelです。Unterが前置詞であることを考えれば、助詞をつけることは不自然ではありません。
ちなみに光文社のこのシリーズは、ゴーゴリの訳もかなり攻めていて、かなり賛否両論です。
まあそれはともかく、まずは「車輪の下で」のざっくりとしたあらすじ。
村一番の秀才であるハンス・ギーベンラートは、周りの大人たちの期待を一身に集め、神学校に優秀な成績で入学します。しかし、そこからいろいろあって、徐々に落ちぶれていく、というストーリーです。
この本の中で「車輪」という言葉が出てくる箇所はそれほど多くありませんが、ハンスの成績が下がってきたことに対して、校長先生が、
よろしい、それでいいよ、きみ。手を抜いちゃいかんよ、さもないと車輪の下敷きになってしまうからね
というシーンがあります。あとがきによると、車輪の下敷きになる、という言い回しには、落ちぶれる、という意味があるそうです。校長先生は明らかにこの意味合いで使っていますね。
そうすると、この運命の車輪を動かしているのは、ハンス本人ではなく、校長先生であり、周りの大人たちです。息子に過度の期待をするハンスの父親や、好意で勉強を教えてくれる牧師や、学校の先生です。
そして、ハンスが進む道も、すでに決まっていたものであり、周りの大人たちが決めたものです。
なぜならシュヴァーベンという土地では、両親が金持ちでない限り、才能ある男の子にはたった一つの細い道しか用意されていなかったからだ。州試験に合格して神学校に入り、それからテュービンゲン大学の神学部に入る。そしてその後は教会の説教壇に立つか、教員になるのだった。
ハンスを乗せた車輪は、この轍の上を進んでいるにすぎません。
また、気になる女の子との場面で、
彼はどうしたらいいかわからず、ちょっと侮辱された気分になって、車輪に触れた道端のカタツムリのように触角を引っ込めてしまい
という場面でも車輪という言葉が出てきます。
比喩で使われているだけですが、ハンスがこの時すでに車輪の下にいて、正に落ちぶれていることを暗に示していますね。
このあとハンスが見下していた工員になって、歯車を磨いているというのは皮肉なことです。
少し話がズレましたが、つまり「車輪」とは、周りや社会、というよりハンス自身の運命であると言えそうです。
「元気でな、ハンス。善い道を外れるんじゃないよ!主がお前を祝福し、守ってくださるように。アーメン」
勉強のし過ぎで、魂を損ない、道を外れてしまった車輪。
改めて読んで、また悲しくなると同時に、いろいろ考えさせられました。